∫/sí: (she/see)

2004
Digital-print

制作のきっかけとなったのは、ある小説の中で、もう若くはない女性が、昔はたくさんの人が話しかけてきたのに、最近は自分自身がすっかり透けてしまって、誰の眼にも映らなくなったように自分を感じる、ということを言うくだりだった。

自分の姿形を自ら認識するのは、鏡の前に立つ時と写真に写った自分を見る時だろうか。鏡の前に立つと、どうしても自分の姿が映る。鏡の中から自分を見返すその姿は、自分であるには違いないのだが、常にどこか異質なものに感じる。鏡や写真によって、自分は、自分の認識する外界における自分以外の人々と同様、自分が顔を持ち、外に向かい、ある空間を物理的に占領し、存在していることを(イメージとして)再確認する。

このズレの感覚は、たとえば鏡の枠に切り取られた世界が鏡の中で反転しているせいだけではない。反転した空間を占領する自分の姿は、自分の内面にとっては、なんらかの外からの要求や、こうありたいという自分の欲望から、手を加えられたりもしながら、受け入れたり、折り合いをつけたりすることを通して、慣れてきたものであり、そこに自分の内面との統一性はなく、倒錯すら感じられる。盲目でない限り、私達は外界を主に視覚によって認識するが、自分自身についての認識に関していえば、視覚はあまり役に立たないのかもしれない。そしてそのズレは、単なる自分自身の問題として静かに放置されて終わってはくれない、そこから色々なことが始まってしまうのだ。

 この鏡の一連の写真は、見ている私に/と、見られている私(何に?自分に?社会に?)、の関係、距離についてのアイデア・スケッチの一部である。鏡に映る自分自身についての言及でもあることから、表現された表象の社会的属性については、写された鏡が、全て20代後半以降の女性の持ち物であるというように、鏡の持ち主のジェンダーと年齢層は自分自身を基準に特定した。(制作メモより)


PRAYER

2007
Video work

男性のキリスト教徒と女性の詩人が登場するこの約15分の映像作品では、2人が日常的に行っている「祈り」と「詩作」の光景が静かに映し出され、自己と他者、個人と世界、さらに現在と未来についての鏡のような関係性が描かれている。横溝はここで祈りと詩作という2つの行為を、絶対的な他者との関係における人間の欲望のメカニズムを意識的になぞる行為として捉えている。いずれも個人的な行為でありながら、神聖な他者を前にして私というエゴを抹消していく行為でもある。それでいて能動的に「あちらがわ」を欲望する言葉のあり方でもある。祈る人は祈りの主体に、詩を書く人は詩の主体になりながら、他者つまり外部から何かを受け取ることを望む。今この時を言葉で刻みながら未来を見据え、能動と受動を同時にはらむこれらの行為が象徴しているのは、自分自身にとっての他者という存在は同時に私達の存在そのものとしても経験されているということである。ほのかな光の中で展開する《PRAYER》の静寂な映像にあらわれる言葉と行為が、人間そのものについての考察へと鑑賞者をいざなう。

…..祈りの中で、言葉には祈る人それぞれによってあらゆる思いが込められ、あらゆる意味を賦与される。言葉が日常のコミュニケーションツールとしての機能とは異なる形で機能するという点において、祈りの中での言葉のあり方は、詩の中での言葉のあり方に相似しているともいえるし、また、「呼びかける」という人間の身体を通した最も原始的な言葉の機能を表現するもののようにも思う。 (アーティスト・ステートメントより)

​この作品は、国内では東京都写真美術館とIZU PHOTO MUSEUMに収蔵されています​。


Phantom

2006 / 2015
Multi-video installation, C-type prints

超常現象の体験談を語る5人の被写体を撮影した、映像と写真が同時に展示されるシリーズ。5人はプロの俳優で、過去に演じた役柄になりきっている。しかし映像内で語られるのは演じた際の台詞ではなく、その俳優自身が「実際に体験した」という心霊体験である。映像が映し出されるスクリーンという虚構と現実を行き来する装置を挟んで、超常現象との遭遇という本人以外には確かめようのない「事実」を、フィクショナルなキャラクターが観客に向かって語る。フィクションとリアルがいくつも重なるこの作品で、横溝は、捉え難い対象を捉えようといくつもの線をひき輪郭を確定しようとするデッサンのように、人間の姿をその多重設定によって抽出しようとしている。


all

2008 – 2010
C-type print and lipstic

写された女性の裸体は全て、職業として性をトレードしているプロスティチュート(娼婦)のものである。このシリーズの制作にあたって横溝は、彼女達に了解を得て、彼女達が働く分だけの料金を支払い、彼女達が働く環境下に赴いて撮影するという手順を踏んだ。限られた光源に照らされる被写体はある意味で、香水や下着の広告などを通じて巷に溢れるセクシャライズされた女性のイメージの対極にある。私達が日常的に目にする宣伝広告やグラマー・イメージは、女性の身体を象徴的に視覚化しているものだが、その身体にかきたてられる欲望が向かう先は、肉体を伴った身体ではなく、イメージの向こうに実態はない。その反面、肉体的な親密さをクライアントに差し出す彼女たちプロスティチュートの身体は、生々しい現実の姿であるのに、彼女達自身や現場は世間から遠ざけられている。またクライアントの欲望を請け負ったプロスティチュート達との体験自体は、視覚化できない感覚の交換であり、他者に提示されるものでもない。実際には触れることの出来ない巷に溢れるイメージと、視覚化出来ない個人のフィジカルな経験。見えるイメージと見えないイメージの関係性。これらの要素が複雑に絡みあう《all》の画面上では、拮抗するイメージとフィジカリティーが、それらの境界線あるいは重なりを表出させ、見る者を戸惑わせる。l

​私にとって、彼女達の身体は、イメージの向こうにある空虚を埋めるものであり、セクシュアルな欲望の行き先、視覚化することのできないフィジカルな感覚そのものをトレードする実体/身体である。・・・・・・プロスティチュートによっては昼間にクライアントをとる場合もあるが、私は夜、彼女達の働く部屋、あるいはアウト・コール専門の場合はその行き先で、与えられた光のみ、窓から入り込む街灯、あるいは部屋の外の廊下の赤い電球等を光源として撮影した。暗い室内の撮影なので露光は長く、8秒から16秒、身体は揺れ、輪郭はぼんやりとし、その場所にあった特定の光の色が強調されたものとなっている。また、写真によっては、後から彼女達のキスによって顔の一部や裸体の一部に口紅やペイントの痕をつけたものもある。(アーティスト・ステートメントより)


Impose/Retreat

2014
Diptych, Gelatin silver fiber print

横溝は、作品の構成条件となる被写体や撮影の状況設定、被写体と自らとの精神的な距離そして時間的な要素に重点を置いて制作している。それらを効果的に活かしながら視覚以外の要素を作品の中で高めてきた。《Impose/Retreat》は、娼婦を被写体としたプロジェクト《all》のアウトテイクを取り上げ、さらに別の視点から新しい作品として意図的に発表したものだ。当初のプロジェクトで計画された構造や状況から「漏れた」イメージを再び作品として可視化することで、構築されたイメージというものに備わる強靭さと脆弱性、固有性と匿名性が同時に立ち現れる。同時に視覚的には当初のプロジェクトの名残が残っているため、過去の作品を切り離しつつも繋がりを否定しないという、曖昧な性質が伴っている。当初のコンセプトがもつ緊張感から抜け出して自由を得たこれらアウトテイクの写真には、イメージが自らの物語を語る気配や、イメージそのものが自律しうる空間の存在を見出せる。とはいえイメージは私達の見るという能動的な行為によって初めて可視化されるため、イメージが自律する可能性は、見るという能動的な可視化の過程で視覚の外へと後退せざるを得ない。《all》で撮影されていた裸体を差し出す娼婦のジェスチャーは、この可視化の過程のコミカルな換喩にも見て取ることもできる。さらに作品に残されているグラフィカルなフレームやフィルムの痕跡は、イメージ/写真であることの自意識過剰な自己言及であり、同時に現前のイメージ/写真の外へと後退してしまった非視覚的な「可能性の空間」との境界を示唆すると言えうる。さらに《Impose/Retreat》は、2点ひと組で展示するディプティックという方法を用いている。連続する別の空間や、イメージ同士の隙間に存在する見えない何かを示唆しようする横溝のイメージ論がスキーマティカルに展開される本作では、私達の「見る」という行為と、イメージが自律する可能性についてとが考察されていく。​